Aikn5.png・北の大地(忍路海岸の縄文人)

・小樽の忍路海岸には、縄文時代の遺跡「忍路環状列石」がある。
・環状列石(かんじょうれっせき)とは、ストーンサークルともよばれ、大地を平坦にし、一定の範囲で石や溝や土手などで円形にして、そこに石を環状に並べた遺跡をいう。

・発掘調査により、環状列石を構成する石は「配石墓」であり、環状列石は「集団墓」である可能性が高いといま考えられている。

・この遺跡は、縄文時代後期から晩期にかけて日本列島の各地で行われるようになった風習で、この時期に集団墓地が造営されたのは、縄文人の定住化と一定規模の集住が常態化したことを意味している。

*忍路海岸(おしょろかいがん)=小樽市の高島から塩谷・蘭島・余市の西側海岸までをいう。
・海岸線はニセコ積丹小樽海岸国定公園に指定されており、景勝地が連なっている。昔は、ニシンが大量に押し寄せた海岸です。


◎ 忍路ストンサークル





・忍路環状列石は1861年に発見された。その後1880年代に札幌農学校の学生「田内捨六」によって発掘調査が行われ、その結果を1886年に後の東京帝国大学教授の「渡瀬荘三郎」が考古学史上初めて学会に報告したストーンサークルです。

・北海道小樽市から余市町にかけて現在80基以上のストーンサークルが確認されているが、その中でもこの忍路環状列石は最大のものです。

・遺跡は、三笠山という小高い山の山麓の、標高20メートルの河岸段丘上ある。

・遺跡の広さは南北約33m、東西約22mで楕円形をしている。
・外側には2m~3mの幅で大きさ10㎝~20㎝の石が環状に置かれている。
・内側には、高さ1mから2mの大石が配置されている。

・約3500年前の縄文時代後期のものと推定されています。

小樽市総合博物館運河館展示    



・忍路ストンサークルが発見されたことで、この忍路海岸沿線には3500年前から縄文人たちの集落があり縄文人の人々が多く暮らしていたことがわかる。

・忍路海岸は、砂浜や波穏やかな忍路湾もあり、魚介類の採取に適し、さらに小高い山々は、狩猟採取にも豊かな恵みを与えてくれたと思われる。

・遺跡の位置から見て、冬の海風を防ぐため河岸段丘の内側で暮らしていことがわかる。

・やはり北海道の先住民族は「縄文人」で12世紀アイヌ民族の侵入で滅亡するまで北の大地は「縄文アイランド」だったことが裏付けられた遺跡です。










・昭和25年、札幌から蘭島へ海水浴に来た札幌中島中学3年生の「大塚誠之助」が、余市の丸山で洞窟の刻画を発見した。
・札幌南高等学校の郷土研究部に属していた兄の「大塚以和雄」に余市の丸山に古代文字の遺跡があると話した。

・兄も現地を訪問し、同校郷土研究部顧問の「島田善三」に報告した。
・札幌南高郷土研究部が発掘に乗り出し、同年暮れまでに土器などを見つける。

・札幌南高の島田から相談された北海道大学助教授の「名取武光」を団長とする調査団が結成され昭和26年と昭和28年に発掘調査を実施した。
・その結果、岩壁に800を超す刻画があり、人が仮装したようなものから舟、魚、海獣、4本足の動物のようなものを発見する。

・さらに洞窟の堆積土層から多数の土器や骨角器のを発見、およそ2000~1500年前の続縄文明期に属する遺跡であることがわかり、刻画を残す洞窟遺跡は小樽市手宮洞窟とともに日本国内において貴重な遺跡であることがわかった。



・現在公開されている洞窟の範囲は、幅が約5m、奥行が約6m、高さは約7mの洞窟。
・壁面に800以上の、人や動物、舟を描いたとみられる刻画が彫られている。





・洞窟には厚さ約7m遺物包含層があり、薄手の土器(続縄文式土器)や石器、骨角器等が出土した。また、貝殻や占い用と推測される獣骨(卜骨)も見つかった。

・このことから約2000年~1500年前にこの洞窟で縄文人達が暮らしていたことを裏付けている。
・縄文人達がこの洞窟で暮らし、洞窟の刻画を描いたと思われるが、まだ明確には裏付けされていない。今後の研究が待たれる。。





・北海道には、数多くの縄文遺跡がある。特に道南地方やこの忍路海岸周辺に多い。
・このことは、有史以前から北の大地で狩猟採取を中心に12世頃まで縄文人達が多く暮らしていたことを明らかにしている。

・12世(鎌倉時代)頃、その縄文人達が突然いなくなった。
・その理由は、モンゴル帝国に追われた沿海州に住む狩猟採取民族の「アイヌ民族」が帝国に追われて集団で北海道に移動し、縄文人達と狩猟採取のテリトリーを巡って争ったと考えられる。

・アイヌ民族は、戦いに優れており、武器としてトリカブトの「毒矢」を利用したようだ。
・北の大地の縄文人達は、戦いにはなれていなく絶滅したと思われる。
・この仮説は、まだ日本の学会では証明されていないが時代背景を考えると理解できる。

・余市に住んでいた私は高校生の時、友人のK君とこの「フゴッペ洞窟」に入り刻画を直接見たことがある。K君に誰が描いたのかと尋ねたら、アイヌの人ではないかと答えた。

・その頃の私は、縄文人もアイヌ民族のことも何も知らない高校生だった。

・それから50年以上経ったいま、再びこの洞窟を訪れた。すでに他界したK君のことを懐かしく思った。



・昭和28年11月14日、フゴッペ洞窟は国の史跡に指定された。
・現在、フゴッペ洞窟は余市町により洞窟の開口部を完全に覆う保護展示施設として管理されている。

・入場料300円を払うとみることができる。積丹半島の付け根にある余市を訪ねることがあったら、ぜひ見てもらいたい。




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