Aikn5.png・縄文時代の始まり(縄文人の日本列島2)

 -縄文人たち2-

・今から数十万年前の日本列島は、まだ大陸と地続きで、今はいないナウマン象やオオツノ鹿などが住んでいた。

・大陸からは、これらの動物を追って、人々も移動してきたと考えられる。

・このころの気候は、温かいときもあれば、寒いときもあり、この気候の変化で、海面は上昇や下降がくり返され、しだいに日本列島の原型ができあがっていった。



・人々の暮らしは、ナウマンゾウなど大型の動物や木の実などを採り、岩かげや洞穴などに住み、動物を求めて移動する暮らしだったと思われる。

・1949年、群馬県の岩宿(いわじゅく)で、赤土の地層から数万年前の人間のつくった黒曜石(こくようせき)の打製石器が発見された。
・このことで、日本の旧石器時代の暮らしがわかりかけてきた。

・この時、日本列島にいた旧石器人の数はわからない。
・その旧石器時代の始まりも明確にわからないが旧石器人は、ナウマン象を求めて列島に移動してから、縄文土器が発見される1万6千年前まで日本列島で生活をしていたと思われる。

・気の遠くなるほどの長い年月の話だが、つぎの住民「縄文人たち」へとつながっていったと思われる。



・今からおよそ1万3000年前に、地球の氷河期が終わった。

・地球の表面が暖かくなると、海面の水位は上昇して日本は大陸から切りはなされ、四方を海にかこまれた日本列島になった。

・この気候の変化は、当時の人間たちに大きな変化をもたらした。

・日本列島の気候は、今日とほぼ同じになり、大型の動物たちは姿を消した。

・温暖な日本の気候は、針葉樹林から広葉樹林へと変わり、広葉樹の森が列島中に広がった。
・その森で暮らすシカやイノシシなど小型ですばしこい動物が増え、カシやクリなどの木の実も豊富にとれだした。

・当然、人々の「狩猟採取」の生活にも大きな変化が起きた。
・縄文時代のはじまりである。
・縄文時代とは、縄目模様の土器を使う人々の時代を指す。



・縄文時代の日本列島は、狩猟採取民族にとっては豊かな列島であった。

・山には、木の実をつける森があり、海は、南から温かい海流が流れ(黒潮)、海岸線では多くの魚や貝類が豊富にとれた。

・また、この黒潮海流に乗って、新しい人々が南の島や大陸からもやってきて、温暖で山の幸・海の幸に恵まれた日本列島で暮らし始めた。

・世界の歴史を見ると、氷河期が終わると「狩猟採取」の社会は終わり、米や麦を中心とした「農耕社会」へと移行している。

・しかし、海に囲まれ、温暖な日本列島では、人々は農耕社会に変化することなく、その後、約1万年以上の「狩猟採取」の社会を続けていく。

・氷河期の終了後、「狩猟採取」社会が1万年以上続く日本の縄文時代は、世界史上めずらしく、考えられない驚くべきことである。

・農耕社会の四大文明が誕生した紀元前5000~4000年ころ、日本の青森県の「三内丸山」では、大規模な縄文文化が栄えていた。
・その遺跡が1992年に発見されている。また、青森県は縄文遺跡群の宝庫でもある。



・縄文時代には、人々の交流で新しい情報がもたらされ、新しい道具がつくられていった。
・石槍(いしやり)のほかに、弓矢がつくられ、犬を使った狩猟も始まる。

・海では、丸木舟や動物の骨で作ったつり針、網をつかって漁をとり、海岸では多くの貝をとったりした。

・しかし、この時代の一番の発明品は「土器」の発明です。

・この土器の登場が生活環境を大きく変え、人々は堅い木の実、魚やけものの肉を柔らかく煮たり、たくわえたりできるようになった。

・土器には、 縄目のもようのついたものもあり、この土器を使ったこの時代を「縄文時代」とよんでいる。

・旧石器時代の人々と縄文時代の明確な区分時期はわからない。

・1975年、青森県の大平山元遺跡(おおだいやまもといせき) で土器が発見された。
・年代測定をすると、なんと1万6500~1万5500年前のもので、世界で一番古い土器と言われている。
・この土器の発見で、旧石器時代と縄文時代の区分がなされ、日本の「縄文時代」は、約1万6000年前から始まったと決められた。

・しかし、旧石器時代から縄文時代への移行は、長い年月をかけ、しだいに同化して混ざり合って移行したと思う。



・千葉県の加曽利貝塚で、 貝がらのたくさん積もった層のなかから、 1匹の犬の骨が発見された。
・貝塚からは、シカやイノシシ、 野ウサギなど、さまざまな動物の骨が発見されたが、みなばらばらに折られたり、割られたりしている。

・しかしなぜか、 犬の骨だけが 死んだときのままの状態で発見された。
・犬は、採取狩猟には欠かせない動物で狩猟の友でもある。
・きっと人間と同じ扱いをしたと思われる。

・死者の埋葬は、縄文時代から始まった。
・旧石器時代から縄文時代になると、定住生活が始まり、縄文人たちには死者を墓地に埋葬する習慣が生まれた。

・旧石器時代にも死者を土に埋める習慣はあったかも知れないが、おそらく洞穴や岩陰に遺体を放置したとみられる。

・埋葬方法には、地域によって差があるが、集落や周辺から少し離れた場所に共同墓地が作られるようになった。

・このことは、縄文社会が身分の差や貧富の違いがない平等な社会だった事の表れとも取れる。

・墓の形式は地域や時代によって異なるが、多くの縄文人は地面に穴を掘って作った「土坑墓」に葬られた。

・北海道や東北地方では、掘った地面の周囲に土を盛り上げて作った「周堤墓」も見付かっている。

・当時の縄文人の平均寿命は、30歳前後と考えられている。
・子どもの死者も多い。死を身近に感じていた縄文人は、「死んでも魂が別の命に蘇って生き返る」と信じて埋葬したのかも知れない。

・死者を埋葬する方法としては、腰や膝、脚部などの関節を曲げる屈葬と、身体を伸ばしたまま埋葬する伸展葬がある。

・屈葬では、折り曲げた脚が開かないように両脚を紐で縛ったり、遺体の胸の上に石を置いたモノもあった。

・屈葬埋葬は、赤ん坊が母親のお腹の中にいた姿勢を取らせる事で、死者が別の赤ん坊になって生まれ変わる事を期待したためか、遺体を納める穴を掘る労力を減らすためか、縄文人はしゃがむ風習があったため、遺体に休息の姿勢を取らせたためかわからない。

・遺体は土中に埋葬される事もあれば、土器や甕に納めて葬る、火葬で骨にしてから土中に埋めるなど、複数の葬り方があったことが遺跡から発見されている。

・いろいろな埋葬方法が見られるのは、死に対する「認識」が時代によって定まっていなかったためかわからない。

・しかし、縄文人が死に対して恐怖や不安、再生への祈りなど、様々な感情を抱いていたからだと考えられる。

・死者を丁寧に葬った縄文人の埋葬慣習は、縄文人の優しさを感じる。

・今日では当たり前となっている埋葬の儀礼も縄文時代に生まれ、現在に至っていることを忘れてはならない。


・縄文時代の人々は、日あたりがよく、 狩に便利な小高い丘などに集落をつくった。
・集落には、共同の作業や祭りをするための広場があり、 まわりには竪穴式の住居がならんでいた。

・人々は、狩や採集などのしごとを共同で行い、とれたものは平等に分けあった。 貧富の差はまだなく、年長で経験の豊かな人の指図で生活をしていた。

・死者を埋葬し、土偶をつくり、自然にたよって生活していた人々は、自然の
ふしぎな力をおそれ、まじないによって身を守り、めぐみを願っていたのであろう。
・なんと平和で素朴な人々なのであろうか。


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